イーサン・アイヴァーソンのカマシ・ワシントン評、およびジャズのモダニズムについて

The Epic

カマシ・ワシントンのThe Epicは、私も自分の2015年ジャズベスト10の一枚に選んだし、各所の評価も高いようだ。四谷いーぐるの忘年会でも、後藤雅洋氏が2015年のベストに挙げていた。

実際なかなか迫力もあるし、楽しく聞いているのだが、正直に言うとどこか釈然としない気分が無いわけではない。

先日のブログでもちょっと書いたが、ようするに昔ロフト・ジャズとかスピリチュアル・ジャズとかと呼ばれていたような、70年代に流行ったスタイルを踏襲しただけなんじゃないか、という批判があり得ると思うのだ。具体例を挙げれば、ファラオ・サンダースが70年代から80年代にかけてTheresaレーベルに吹き込んだ諸作、RejoiceとかJourney To The Oneとか、あのへんである。実際影響を受けているのだろうと思う。

最近イーサン・アイヴァーソンがブログでThe Epicに言及していて、我が意を得たりと思った。私はアイヴァーソン率いるザ・バッド・プラスのそんなに熱心なファンというわけではないのだが(去年出たThe Bad Plus Joshua Redmanは結構良かったけど)、アイヴァーソンとは、実は彼は私の兄貴ではないかと思うくらいに意見がいつも一致するのである。そんなに長くないので該当部分だけ訳してみる。

カマシ・ワシントンのThe Epicが非常に成功を収めているので、このところ批評と歴史の長期的俯瞰について考えている。少なくとも三人の多様で知識の豊富な批評家、ベン・ラトリフ、テッド・ジオイア、フィル・フリーマンが、The Epicを今年のトップ・アルバムに挙げていた(ラトリフとジオイアは第1位、フリーマンは第2位に)。音楽家として尊敬するエリオット・シャープ(訂正:ミュージシャンではなく同名の批評家だった)は、「カマシ・ワシントンは2015年唯一のジャズ・アルバムをリリースした」とツイートした(訂正2:シャープは冗談のつもりだったようだ。いわく「私が言いたかったのは、ジャズに疎い一般の人は、カマシ以外にジャズは存在しないと思っているかのように見える、ということだ」)。別の大物、フライング・ロータスは、「カマシWがジャズのカテゴリで全く評価されていない?!?心が痛むね」とツイートした。

こうしたコンセンサスを踏まえて、数ヶ月前に書いた私のThe Epicの評価を改めて読み返してみたのだが、意見を変える必要はないと思う。

ワシントンについて、エイゾー・ローレンスやビリー・ハーパー、ゲイリー・バーツは何か言いたいことがないのかなと思う。彼らはこのスタイルを、それが新鮮なときに演奏した――というか、そもそも彼らがこうしたスタイルを発明したのだ。

ワシントンを歓迎する理由は、たぶん大半が音楽以外の面である。彼のアルバムとツアーは、新しい観客層を開拓した。ワシントンは、現代のブラック・カルチャーとジャズの絆を再確認しつつある。おそらくワシントンは、「ジャズを再び現代において意味あるもの」にしている。

しかし、ワシントンがシリアスなジャズ・ミュージシャンたちからシリアスに捉えられたければ、彼の次の作品は、優れた演奏という点で本当に野心的なものにすべきだ。今のところ、ワシントンの軌跡はチコ・フリーマンやデヴィッド・マレイ、デイヴィッド・S・ウェア、あるいは偉大なアーチ―・シェップにさえちょっと似ている。才能がありエキサイティングなテナー奏者だが、批評家やその道のマニアに受け入れられるには、彼らのサウンドの表面に余計なたわごとが若干多すぎる、という点で。

そして数ヶ月前のエントリというのはこんな感じ。

The Epicの魅力は理解できる。あのアルバムには、本物の「ムード」を漂わせる何かがある。ワシントンの華麗な人脈から、ファンも批評家もあれをヒップホップと比較しているが、The Epicを現代と結びつけているのはスタイルではないと思う。あのアルバムのスタイルは、実のところレトロだからだ(たとえばマッコイ・タイナーやファラオ・サンダース、ビリー・ハーパー、ゲイリー・バーツが70年代初頭に作ったレコードと比較してみるとよい)。結びつけているのはプロダクションや音色、曲の均一性、アティチュードだ。

The Epicはまた、非常に生々しい。私が高く評価するのはそこだ。「生々しい」は、ふつう私がLAジャズと関連づける要素では全く無い。これが我々のウェスト・コーストの仲間たちによるシリアスな反乱の始まりであることを期待しよう。我々には襲撃が必要だ。

まあ、今聞いて楽しければそれでいいんだ、というのが、本来音楽を楽しむ正しい姿勢のようにも思う。しかしごく少数かもしれないが、ジャズに関してもう少し違った評価軸を持っている人間というのもいる。たとえばマッドリブが自分のジャズ・プロジェクトをYesterday’s New Quintetと名付けたのは、単にMJQに合わせた洒落のようにも見えるし、あるいは今となっては古いダサいもの、という揶揄も含まれているのかもしれないが、昨日の時点で明日の音楽をやろうと悪戦苦闘する、そうした果敢な実験精神というか、痩せ我慢への憧憬のようなものも見いだしていたのではないかと思う。

先日大谷能生氏と話していて、我々はモダン・ジャズが好きなんだけど、実は重要視しているのは「ジャズ」ではなくて「モダン」のほうなのかもしれないね、という話になった。何か少しでも新しいことをやることに価値を見いだす、というのがモダン・ジャズの中核にあるドグマで、私はそれをうまく解体できていないということなのだが、これが実のところかなり特殊なモラルであることは理解している。なぜジャズにこのようなモラルが憑依したのかについてはいくつか研究もあるが、その一つがスコット・デヴォーのThe Birth of Bebop: A Social and Musical Historyだ。

いずれにせよ、ポストモダンについては多くが語られているが、実のところモダンのモダンたるゆえんについては(たぶん最近まであまりに当たり前だったので)深く検討されてこなかったような気がする。その話はまた今度。

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