イーサン・アイヴァーソンによるシダー・ウォルトン・インタビュー

ザ・バッド・プラスのピアニスト、イーサン・アイヴァーソンはとにかく筆の立つ人で、有能なインタビュアーでもある。ジャズメンのみならず様々な人々をインタビューして、その内容を自分のサイトで公開しているが、なかでも2013年に亡くなったシダー・ウォルトンの2010年のインタビューが興味深かったので訳してみた。シダーは実力の割に生前も没後もあまり話題にならないが、村上春樹が著書「意味がなければスイングはない」の一章をわざわざ割いて取り上げたことでも分かるように、非常に通好みのピアニストであり、ジャズ史上に名を残す作曲家でもある。おそらくシダーあたりが最後となる「体でジャズを覚えた」世代と、アイヴァーソンを含め「学校でジャズを学んだ」世代の微妙な関係もにじみ出ていておもしろい。翻訳を快諾してくださったアイヴァーソン氏に感謝する。

意味がなければスイングはない (文春文庫) Kindle版


イーサン・アイヴァーソン(以下EI):あなたは、ぼくが初めてライヴで見た偉大なジャズ・ピアニストなんです。ミネアポリスの「アーティスツ・クォーター」という店で、1986年か87年のことでした。ケニー・ホーストがドラムスで、ビリー・ピーターソンがベース、最初の曲は『シダーズ・ブルーズ』だったんですが、生まれてこのかたこんなに素晴らしい体験をしたことはないと思ったものです。

シダー・ウォルトン(以下CW):冗談だろ。何歳だったの?

EI:高校生でした。

CW:ジャズにはまるにはちょうどいい年頃だね。

EI:以来、あなたの演奏には常に注目してきました。ご存じかどうか知りませんが、あなたは本当に多くの若手ジャズ・ミュージシャンの心に、畏怖と恐怖の念を与えているんですよ。

CW:よくそう言われるよ。私は私で、そんな風に思われていることにびびっているんだがね!私はものすごく運が良かったんだ。セロニアス・モンクや、アート・ブレイキーや、ディジー・ガレスピーや、エロール・ガーナ―のような人々と出会うのに間に合ったからね。マイルス・デイヴィスだって、私たちがメッセンジャーズにいるときには私たちを聞きに来たものだよ。

彼らは、少しずつ叡智を分けてくれたんだ。最も記憶に残っているのはセロニアス・モンクだね。彼は歯に衣着せぬ人だった。モンクは言うんだ、「自分ならではのものを演奏しろ」と。

それが私のやっていることだ。たぶん、モンクの助言が無意識に利いているんだと思うね。私は心理学者じゃないけど、時として助言の力が強いことくらいは、ロケット物理学者じゃなくたって分かる。

EI:なにせ、助言しているのがセロニアス・モンクですからね!モンクをライヴで見るというのはどのような体験でしたか。

CW:音楽への非凡な愛に溢れていたね。私が1958年に軍隊を除隊したとき、彼はまだ「ファイヴ・スポット」に出演していた。ソニー・ロリンズとかジョン・コルトレーンがいたこともあったが、私が戻ってきたときはジョニー・グリフィンがグループにいたね。グリフィンがあまりにもうまく仕事をこなしているんでびっくりしたよ。君も知っての通り、モンクの曲には単純なものもあるけど、いくつかはそうじゃないからね(『トリンクル・ティンクル』が良い例だ)。でもグリフィン氏は私の予想を超えてすごかった。

たぶん君は、セロニアスとパノニカ男爵夫人の伝説を知っているだろう。彼らは親密で、プラトニックな友人関係だった。モンクの奥さんのネリー・モンクは、男爵夫人がモンクを家から引っ張り出してくれるので喜んでいたよ。彼らは男爵夫人のベントレーに乗って外出したものだ。以前、私は「ブーマーズ」という店でアップライト・ピアノを弾いていたんだが、モンクと男爵夫人は、私の真っ正面に座りたがることがあってね。「なんてこった」と思ったよ。

でも、そういうのが、当時ジャズ界でのしあがろうという奴の日常だったんだ。この世界でトップの人々と対峙するということがね。一般の人々と同じように、彼らも君を聞きに来るんだよ。似たような状況に直面したというドラマーも何人か知っている。テーブルの向こうを見たら、マックス・ローチ、ロイ・ヘインズ、アート・ブレイキーがいたんだって。やはり「なんてこった」と思ったらしいよ。思うに、これはニューヨークが世界最良の文化資本を有しているという話を裏付けるものだね。こういう一流の人々と、個人的に親密につきあえるということなんだ。

EI:ジャズの語法はどのようにして学びましたか?テキサスにいたころからすでにレコードを聴き始めていたんでしょうね。

CW:音楽に飢えていたね。ナット・キング・コールのレコードはいっぱいあったよ。私がダラスを離れる前に、デューク・エリントンがキャピトルに録音した『サテン・ドール』の初演を聞いたのを覚えている。信じられなかったね。78回転のレコードを何度も何度も聞いたよ。あれは素晴らしい体験として覚えているな。明晰とはこういうことなのか、という。

EI:デュークがバンドに飛び入りさせてくれたという話を伺ったことがありますね。

CW:うん、フォート・ディックスに駐屯していたときのことだ。デュークのバンドは午後、見た目はでかい武器庫で、一応ダンス・フロアにも使えるというところで演奏していたんだ。だだっぴろい場所だったが、あまり人はいなかった。軍事基地の午後だからねえ。他の軍人はもちろん仕事しているんだよ。

私はドイツに、私の友達もどこかへ送られることになっていた。制服を着てバンドを見ていたんだけど、思い切ってデュークに飛び入りさせてくれと頼んだんだ。デュークは「よかろう」と言った。彼はスピネット(小型の電子オルガン)を弾いていたね。デュークはとりあえず何分か抜け出したかったんじゃないかと思う。

舞台は客席よりかなり高くなっていて、私たちが上へ登る途中にデュークは言ったんだ、「鍵盤は優しく弾くのだぞ、若者よ」とかね。何ともエレガントな人だった。デューク・エレガントという感じだったね。で、私たちは『恋とは何でしょう』を演奏した。友達は歌ったよ。覚えている限りでは、ベースはこのへんで、バンドは私のすぐ前にいたと思う。サックス陣が一番近かったかな。で向こうのほうでは、私の友達がマイクの前で歌っていた。エンディングはバンドが適当にでっちあげてくれたんだ。エンディングに近づくと、昔「クランベイク・エンディング」と呼んでいたようなものになった。舞台から客席に戻る途中、デュークは例のデューク風の言い方で、「優しく弾けと言ったはずだぞ!」とか言っていた。あの経験は、自分の演奏の仕方に今も生き続けているね。

EI:バド・パウエルからはどういう影響を受けましたか?

CW:私がバドを聞いたときには、すでに彼は病気になっていたと思う。もう私がテキサスでレコードで聞いたバドじゃなかった。『サムバディ・ラヴズ・ミー』とか『パリジャン・ソロフェア」といった、ああいう偉大なレコードのころのね。『虹の彼方へ』も当時聞いていて、今でも私はあの曲をバド風に弾いているよ。言うなればパクリですよ。

ウォルター・デイヴィス・ジュニアが、バドを見たときのことを話してくれたんだが、バドは延々と弾き続けることが出来たそうだ。「バド、もういいよ、もう十分だ」とか言って止めさせなければならなかった。バード(チャーリー・パーカー)やディジーは管楽器奏者だから、肺を使わなければならないからね。でも、バドは思いつくままエンドレスにあの魔法みたいな演奏を続けたそうだよ。ピアノの歴史に関して言えば、彼はテディ・ウィルソンやアール・ファーザ・ハインズのような人々のスタイルの後継者と言える。エリントンだって影響しているね。君も知っての通り、彼はホーン・ライクに演奏して、高音部を中心に使い(手振りでト音記号を示す)、でもその方法は特異に構築的だった。あと、彼のコードの知識も、結果としては非常に影響力が強かったね。こんな言い方では済まないけどな!彼は全くもって独創的だったよ。

EI:バドの演奏法をテキサスで学ぼうとしましたか?

CW:んー、私は誰の演奏法も学ぼうとしていたよ。私はすぐ影響されてしまうんだ。マイルスとバードのレコードにおけるバドの伴奏にも魅了されていた。バドの弾くコードは本当に豊かな音だったね。あと、どのみち彼はどんな演奏法も出来たしね。

私は音楽キチガイで、レコードから吸収できるものは何でも取り入れようとした。でも、レコードからはある程度までしか学べないものだよ。実際に演奏している人を見ないといけないんだ。

EI:では、あなたにピアノの弾き方を教えたのは誰だったんですか?

CW:ギル・コギンズという人だよ。

EI:ああ、マイルスのレコードのいくつかに参加している人ですね。

CW:少なくとも一つには入っていたね。彼は優れたソロイストではなかった。ギルは伴奏者として優れていたんだ。彼はレスター・ヤングとも共演していたよ。私はブルックリンのベッドフォード・スタイベサント地区にある、ワシントン・アベニューに面した家でギルと会ったんだ。彼のお母さんは、ニューヨークに来たばかりの私たちのような連中に部屋を貸していてね。部屋に越す前から私たちは友達になった。彼の部屋に行って、彼がマイルスのバンドのにいたときに学んだことを教えてもらうんだ。彼はとてもマイルスを尊敬していたね。マイルスは和声について良く知っていた。和声を研究していたんだ。マイルスはジョージ・シアリングの『コンセプション』の新バージョンを作っていたな。覚えているかね?マイルスがそれをなんと呼んだか忘れちゃったけど。

EI:『デセプション』と呼んでいましたね。

CW:そうそう、それだよ。ギルに『コンセプション』のコード進行の仕組みを教えてもらうのは楽しい時間だったな。彼は私にいろんなことを教えてくれた人だよ。

ちょっとの間ウィントン・ケリーを見る機会もあってね、彼から2つか3つヴォイシングを拝借したこともある。

EI:デトロイト人脈についてはいかがでしょう。彼らとの付き合いはありましたか?

CW:1959年、私はJ.J.ジョンソンのバンドにいたんだけど、バンドがデトロイトに行ったとき、バリー・ハリスに会ったんだ。彼の家に行ったよ。彼は私がすでに知っていることのいくつかに名前をつけていた。彼は生まれながらの教師だったね。

EI:それは興味深いですね。ディミニッシュト・コードについて何か言っていましたか?

CW:うん、その手の話だよ。理屈はともかくヴォイシングとしては私も知ってたんだけどね(彼にはそれは言ってない!)。彼の家でアイデアを交換するのは楽しい時間だったな。今でも覚えている一日だよ。

トミー・フラナガンには、彼がニューヨークに来てから会ったんだ。しばらくおしゃべりした後、彼が私に最初に尋ねたのは、どこかピアノが練習できるところはないかということだった。なので私は彼をケネス・カープという友達のところに連れて行ってね。カープはグラマシー・パークのすぐ近くの家に住んでいて、毎週金曜と土曜の夜、ライヴのあとにジャムセッションを開催していた。私が多くの人とあったのはそこさ――オスカー・ペティフォードとか、ジョーンズ兄弟とか。といってもエルヴィンとサドだけで、ハンクはいなかったけどね。いやはや、本当に多くの人と会ったよ――ハンク・モブレーやアート・ファーマーと会ったのもあそこだな。すごい経験だった。私はそこにいつも行っていた、なぜなら私もピアノを持っていなかったのでね。だから私とフラナガンが会うにも、カープの家で落ち合うのがちょうどよかったんだ。フラナガンはあそこでのセッションのおかげでオスカー・ペティフォードから仕事をもらったんだよ。ペティフォードはピアニストを必要としていてね、こっちに歩いてきて立ち止まると、こう言った。「お前、譜面は読めるか?」私は言った。「若干なら読めます、ペティフォードさん。」震え上がっていたんだ。

EI:あなたは譜面に強かったと思うんですが?子供のころはクラシックは練習しましたか?

CW:うん、私のお気に入りは『月光ソナタ』とかドビュッシーの『月の光』とか『ラプソディー・イン・ブルー』とかでね、あとはバッハのブーレとかインヴェンションのいくつかだったと思うよ。音階練習が好きで、多くの時間をそれに割いていた。指使いを学ばないといけないからね。音階によって違うんだ。CのスケールとDフラットのスケールはフィンガリングが違うとかね。

EI:両手で練習しましたか?

CW:ああもちろん!片手だけ練習するなんて考えられるかい?

EI:そりゃそうですね!アルペジオも練習しましたか?

CW:うん、私の先生はメジャー7thのアルペジオをやった。C、E、G、Bだね。それから彼女はBを半音下げたアルペジオをやった。ドミナントだね。それからC、D、F、Aフラットのアルペジオもね。そういうのを全部練習すると、君、2、3時間は軽く経ってしまうよ。全部のキーでやればね。

それでも、自分に自信はなかったんだ。だから、ペティフォードにあえて「ええもちろん、読めますよ!」とは言えなかった。とてもじゃないけど言えなかったんだ。まだちょっとナーヴァスだったんだね。あそこにいるだけで楽しかった。この偉大な文化、偉大な芸術形式をを吸収するということだけでね。何を言ってるか分かるだろ。まだ現場に飛び込んで、あまり自信がないのに、実地に出来るかどうか確かめたくはなかったんだ。だから、「若干は、ペティフォードさん」と答えたんだ。あれは正直な答えだったと思うよ。で、フラナガンが代わりにその仕事をもらって、素晴らしいレコードを作った。

EI:ディジー・ガレスピーは人々に音楽理論を教えていたとよく聞きました。

CW:うん、彼は理論をよく知っていた。彼はアート・テイタムから学んだことのいくつかが好きだったね。「テイタムはこんなふうにやっていたんだぜ」とか言っていたな。

EI:ディジーはモンクからも学んだんですよね?

CW:たぶんね。でも私はディジーからモンクの手法は学ばなかったよ。モンク本人を見て学んだね。

実際、ある晩、男爵夫人が電話してきたんだ。「シダー、モンクが病気なのよ。仕事に行ってくれる?」いやはや、興奮したなんてもんじゃなかったよ!「いいえ」なんて言えるわけないだろう!ロイ・ヘインズがドラムスだった。なんというか、おびえていたよ。曲の間に私はこんな風に(縮こまって)座っていて、それをロイ・ヘインズが向こうからスティックでつつくんだ。「起きろ!」って。(アーメッド・)アブドゥル・マリクがベースだった。モンクはベースをピアノの端っこ、ほとんどステージの袖のほうに置いていたね。そして、もちろん、ジョニー・グリフィンだ…。私たちはスタンダード曲を演奏した。モンクの曲じゃなくてね。素晴らしかったよ。たしか二晩だったかな。まだ20代だったころの素晴らしい思い出だ。

EI:あなたとモンクは、演奏においてドラマーと深い関係を築くという共通点がありますね。ドラムスから距離をとろうとしているように見えるピアノ弾きもいますが、あなたはドラムスを音楽に巻き込もうとする。

EI:うん、そうだろうね。

EI:ディジーの本で、「マイナー6th」コードと「マイナー7thフラット5」について論争があったというのを読みました。

To Be, or Not . . . to Bop ペーパーバック – イラスト付き, 2009/3/6

CW:(笑って)そんな論争があったのかい。

EI:言い争いというほどのものではなかったようですけどね。モンクとディジーはそのサウンドがどのようなものかは知っていましたが、それをどう呼ぶかについてはまだよく分かっていなかった。

CW:うん。(『ロメオとジュリエット』のテーマを歌う)これ誰が書いたんだっけ?チャイコフスキー?私が思いつく一番良いサンプルだね。

しかし、君は聖歌の話をしてるんじゃなくて、ジャズの話をしてるんだよね。

EI:たとえばあなたは『ウッディン・ユー』を演奏しますよね。ビバップ草創期にコールマン・ホーキンスとの最初の録音で取り上げられたディジーの古典です。私は、音楽にはそれぞれ独特な響きがあるように思うんです。非常に特別な響きです。

CW:全くその通りだ。何度も何度も何度も使われたね。

EI:しかしあなたが『ウッディン・ユー』を弾くと、あなたはストレートなドミナントで弾きますよね。

CW:うん、私はドミナントがどうしようもなく好きでね、他の人に迷惑がかからないならどこでも使うんだ。もう治まったけどね。前はひどかったよ。前にボビー・ハッチャーソンに言ったんだ、「ボビー、俺はドミナントがとにかく好きなんだよ」とね。我慢できないんだ。今はできるけどね。歳を食って、普通のマイナー7thで我慢できるようになった。マイナー7thはブルーズの最後の四小節の最初のコードだけどね、私はいつも9度を上げたドミナントにしていたものだ。そうできるときは、そうしなくちゃいられなかったんだ。でも今はもう歳を食ったからマイナー7thをただ演奏するだけで大丈夫だよ。

そんなわけで、あれは私のビョーキだね。

EI:あなたのサウンドを個性的にしている一つの要因は、あなたのコードがそれぞれ特徴的だということですね。あなたのハーモニーは非常に個性的です。

CW:そうかい?ありがとう。

EI:あなたがスタンダードを弾くとき、メロディをハーモナイズするならこうすべきという正しいやり方で弾いているように聞こえますね。

CW:うん、ロジカルに弾いているよ。みんなそうするといいのにと思っている。50何年かそこら活発に演奏したりレコーディングしたりしてきて、人々と録音したり、自分自身で録音したりする機会を数多く得た。で、私は何とかして曲を自分らしいものに仕立てようとしてきたんだ。特にスタンダードはね。リハーモナイズするか、何か私らしい要素をその曲に入れて自分ならではのバージョンにしようとした。ほとんど無理な話だけどね。

EI:そういう見方はアーマッド・ジャマルに由来するものですか?

CW:あー、そうだね。正しいものの考え方をするピアノ弾きでアーマッドをチェックしない奴なんて考えられないよ。うん、もちろんそうだ。ジャマルには神秘がある。彼が「ライヴ・アット・パーシング」とか、ああいうものすごく成功したレコーディングをやっていたとき、君はまだ生まれていなかっただろうね。

Complete Live At The Pershing Lounge 1958 + 1 Bonus Track

『ウッディン・ユー』に関して言えば、ディジー・ガレスピーは8万ドルの小切手をもらったと言っていたよ。ジャマルのレコードがものすごい売れたのでね。

EI:うわ!ディジーが自分でそう言ったんですか?

CW:ディジーとは少なくとも一度ツアーをやった。ディジーは私と、ボビー・ハッチャーソンと、フィル・ウッズと、ルーファス・リードと、ミッキー・ローカーを選んだんだ。あれ、もしかすると違ったかな?ベースはリチャード・デイヴィスだったときもあったような。まあとにかく、私はディジーとお近づきになったんだよ。ツアーに出ると、相手を人間として知るようになる。さっきのはそのときに彼が語ったことだよ。

EI:ディジーはあなたが伴奏するときに何か要求しましたか?

CW:ディジーは、言葉によるリハーサルしか必要としなかったね。どこに行ってもみんな彼の曲を知っていたから――『チュニジアの夜』『ウッディン・ユー』、『コン・アルマ』とかね。時々は、一部屋に我々を集めて、ある曲でどうすべきかを説明したりした。言葉のリハーサルで、あんまり細かい指示じゃなかったけどね。『コン・アルマ』はデュエットでやる、とか。

EI:あなたは最後のA部を半音さげて演奏していましたか?(最後のAはEフラットのキーで始まることになって、ブリッジの最終コードを考えると非常にヒップな響きとなる)

CW:いいや、彼がそれを言い出したのは後のことだったね。

EI:ディジーから学んだんですか?それともあなたが説明した?

CW:いや、ハンク・ジョーンズが彼に教えたんだ。ハンク由来だとディジーは言っていたよ。私じゃない。彼は言うんだ、「なんで俺は思いつかなかったんだ?」私がディジーとそういうふうに演奏しているのを聞いたことある?

EI:いいえ、でもあなたがそう演奏しているのは聞いたことあります。いかにもあなたらしい響きなので、ディジーに教えたのかと。

CW:あれはディジーからもらったものだよ。ディジーによれば、ハンクが「なあ聞けよ、すぐさまEフラットにいけるポジションじゃないか」と言ったそうだ。でディジーにはありがちなことなんだけど、「くそ、なんで俺は思いつかなかったんだ?」とばかりに、自分も取り入れたんだろう。ディジーがそう演奏し続けたかどうかは知らないけどね。ハンクが今そうやっているかも知らないよ。私は時々そうする――選択の問題だね。

EI:あれは、いくつかのあなたのオリジナル曲を思い起こさせるんです。半音下げるセクションがある曲ですね。たとえば『ザ・マエストロ』とか。

CW:うん、そうだね、というかあれはディジーのところでの経験から思いついたのかもしれんよ!

EI:あなたはジャズにおけるリズムを理解するために何をしましたか?

CW:ジャズにおけるリズムを理解する?そりゃまた大層な質問だね。難しいというんじゃないけど、理に適った答えを思いつくのは難しい。ええとね、私は高校のバンドで、鉄琴を叩いていたんだ。私はバンドのリーダーだった。でかいフットボール・スタジアムでも、あのろくでもない鉄琴の音は聞くことができる。

EI:エルヴィン・ジョーンズもそう言っていました。彼はマーチング・バンドでの演奏から学んだとか。マーチング・バンドでベース・ドラムを叩いていたそうです。

CW:うん、そう思うよ。デヴィッド・ファットヘッド・ニューマンも同じバンドにいてね。バンドの指導者はうまいトランペット奏者だったんだけど、彼は教育の道を選んだ。フォーメーションの一つで――わかるだろ、ハーフタイムの間だよ――我々はかちっと譜面通りに演奏することになっていたんだけど、ファットヘッドはしくじってしまってね。それ以来、バンドの指導者は彼をファットヘッド(まぬけ)と呼ぶようになったんだ。

私はそのころはクラリネットを演奏しようとしていた。耳で覚えて吹いていたんだけどね。クラリネットのマーチング・バンドのパートの、ああいうレジャーラインとか読めなかったし。スーザの曲とか、高音部ばっかりで音符も多いんだ。でも私は耳で覚えて、オクターヴ下げて演奏することができた。「耳の人」だったんだ。いつも私は指導者のJ.K.ミラーのことを思い出すよ。彼は私みたいな奴に対しても非常に辛抱強かった。オフシーズン、つまりフットボールのシーズンじゃないときには、彼は我々にディジー・ガレスピー・オーケストラのためにギル・フラ―がアレンジした譜面をやらせていたな。J.K.ミラーはいくつかのバンドで演奏したことがあったんだ。実際、彼は、当時はテリトリー・バンドと呼ばれていたようなバンドで演奏したことがあると言っていた。40年代か、30年代かもしれないが。

ニューヨークに着いたとき、レッド・ガーランドに会った。彼に自己紹介したんだが、それは彼がダラス出身だったからだ。彼の父親はうちから2ブロック先に住んでいたんだ。だから、「やあレッド、ぼくはダラス出身のシダーというんだ。君のお父さんを知ってるよ」と言った。それでレッドはすぐに友達になったんだ。彼は「カフェ・ボヘミア」のバーでマイルス・デイヴィスの横に立っていた。レッドは言った、「ああそうかい、マイルス、こいつなんだが――名前なんていうんだっけ?シダー?――ダラスの出身だ」。マイルスは言った、「J.K.ミラーを知ってるか?」こっちはびっくり仰天さ。マイルス・デイヴィスが私のバンドの指導者を知ってるなんて。ほとんど気を失いそうになった。10数えなければ次の句が継げなかったよ。それで私は言った、「うわ、正しい街にやってきたに違いない。彼らは俺のバンド・ディレクターを知ってるんだもの」。その後、ファットヘッドが説明してくれたんだが、ミラー先生はたぶん東セントルイスを通過したことがあるというんだな――あるいはどこかマイルスが住んでいたところ――そういうテリトリーバンドの一員としてね。マイルスは私と同じくらい音楽的にハングリーだったんだろう、だからそういうバンドのトランペット・セクションとか聞いていたんだろうね。

EI:レッドはピアノについて何か教えてくれましたか?

CW:いや、彼はそういうタイプの人じゃなかった。彼のコードは完全に、なんというか…非制度的だったからね。「非制度的」というフレーズは今思いついたんだけど。『ビリー・ボーイ』とかそうだね。君はあのコードがどれくらい豊かな響きか知っているだろう。あれが彼だよ…分析不能なんだ。私には、ということだけどね。

EI:ええ、あの演奏には非正規的な音がいっぱい含まれていますね。

CW:うん、でもあれは正しい響きに聞こえるね。今ではごく当たり前の音に聞こえるよ。

EI:あの美しい5度――ベルの音のようなあれがさらに良い響きになっていますね。

CW:ああ、そうとも、私自身はそんなふうに考えたことはなかったけどね。フィリー・ジョーに聞いたんだが、彼らがあるところで1週間仕事をするとして、最初か次の夜はレッドはどういうふうに曲を演奏したらよいかいろいろ試しているそうなんだ。たぶん本当に間違った音もコードには入っていただろうね。でも、最終的には全部ちゃんとしたものになる。

EI:興味深いですね。レコードではレッドはいつも完璧に聞こえます。

CW:ああそうだね。彼はレコードでは、完璧以下の出来に聞こえることを許さなかった。今のはライヴの話だよ。

マイルスのところを離れた後、彼はニューヨークにそれほど興味がなかった。だからテキサスに戻ったんだ。だから呼びたければ連絡して呼び寄せないといけない。しかし、もし火曜日にライヴが始まるなら、彼は月曜には来ていたね。なぜなら、彼はいつもヴィレッジ・ヴァンガードに行って、オーケストラを聴いていたからなんだ。彼はアレンジメントを全部知っていた。歌うことだってできた。それは彼の音楽性のスタイルについて知見を与えるものかもしれないね。マイルスは好んでセットに一つは彼にフィーチャー曲を与えていたものだよ。知ってるだろ、トリオの演奏でね。

EI:ええ、「マイルストーンズ」ではトリオ曲がありましたね。

CW:あれは素晴らしいレコードだったね。

MILESTONES

EI:あなたの世代のジャズメンは、プレスティッジやコロンビアのマイルスやコルトレーンのレコードをバイブルみたいに思っていたようですね。

CW:うん、私とビリー・ヒギンズは、あの時代への愛を共有していたね。そしてあの時代に先立つ時代もだ。たとえば、『ビヨンド・ザ・ブルー・ホライズン』という曲をベースにした『シー・ロート』という曲とかね。マイルスは…後年に比べればまだ駆け出しという感じだが、それでも大した演奏だよ。

バードを見たことがあるよ。彼がデンヴァーに来たときで、そのころ私はいわゆる「アフターアワーズ」の店で演奏していた。デンヴァーでコンサートがあると、コンサートの後、出演したミュージシャンはその店に来ることになっていた。コーヒーに見せかけた酒が飲めるというのでね。食い物もあった。そこで、バードは実際に飛び入りで演奏したんだ。あれは興奮したよ。(一緒に演奏していたサックス奏者はワイアレコーダーを持っていて、録音もしたんだが、後に消してしまった。私は激怒したよ)

バードはどこへ行っても、「君たち、混ぜてもらってもいいかな?」とか言うんだよ。私は面食らったけど、チャーリー・パーカーというのはそういうタイプの人だったんだ。彼はかなり深い声だったね。バードにそう言われてノーという奴なんかいないよ。彼は3曲くらい演奏した。全部キーはCだったな。一つは『ダンシング・オン・ザ・セイリング』だったが、後の2曲は思い出せない。そして、彼は椅子をくれといったんだ。舞台は結構高いところにあったんだけど、私はここにいて、彼はすぐ右に立っていた。椅子をくれといったときね。それですぐに静かないびきが聞こえてきたよ。3曲演奏して、彼は寝ちゃったんだ。でも、素晴らしい思い出だよ。

今でも覚えているツアーがあったな。リー・コニッツと会うたびに、あれについて話し合うんだ。そのツアーはスタン・ケントンのオーケストラ、エロール・ガーナ―、リー・コニッツ、フランク・ロソリーノ、チャーリー・パーカー、ディジーなんかをフィーチャーしていた。幕間で、この結構大きな彼らが演奏していた場所でね、私はチャーリー・パーカーとディジーがブースでチェスをやっているのを見たんだ。私は感銘を受けたよ。そのころはまだ学生だったんだけど、「すごいなあ」って。

EI:コニッツと言えば、レニー・トリスターノのレコードは聴いたことありますか?

CW:うん、もちろん。というか、私はトリスターノの熱狂的なファンだったよ。

EI:というのも、誰だったかが、私が譜面を持ってきたあなたの『四月の思い出』のソロにトリスターノの影響が見られると言うんです。私にはそうは思えないんですが。

CW:それはあり得る話だよ。どんな人のサウンドも、君に何かしら跡を残していくものだ。私はライヴでトリスターノを聞いたことはないんだけどね、レコードでは、私が入手できるものは何でも聞いた。ジョージ・シアリングも、レニー・トリスターノも。

EI:エロール・ガーナ―は?

CW:エロール・ガーナ―もそうだし、ナット・コール、バド・パウエル、レスター・ヤング、ハンク・ジョーンズとか。私がレイ・ブラウンと会って、レイやミルト・ジャクソンと演奏するようになったとき、彼らの演奏のアレンジのいくつかがレイによるものだと知った。レイはヘッド・アレンジの名手だったね。とにかく仕事が早かった。君がそれなりに演奏できる奴なら、彼は一言、「こうしろ」と言うだけなんだ。バーン、それでアレンジになっちゃう。

EI:レイはオスカー・ピーターソンにアレンジを提供したと思いますか?

CW:うん、たぶん『テンダリー』がそうだね。間奏を入れたのはたぶん彼だと思う。レイと付き合いが長くなると、彼の貢献の特徴が分かるようになるんだ。レイと長い付き合いがなければ分からなかったね。

EI:多くの人間は、あなたがエルヴィンとレイ・ブラウンと作ったトリオ・レコード、「サムシング・フォー・レスター」を知っていると思います。

Something for Lester

CW:うん、あのセッションはとても楽しかった。ただ、私はあれはエルヴィン名義のレコードになるんだろうと思いこんでいたんだ。だから、何曲かドラムスが活躍するような曲を準備していった。で、実はあれがレイのレコードだと知って、「ありゃりゃ」と思ったよ。だから、私は出来る限りの調整を行った。多くの人があのレコードが好きみたいだね。私の友達のジェイヴォン・ジャクソンはいつも言うんだ、「レイとエルヴィンはあんまり相性良くないんですが、でもあなたが二人をくっつけているんですね」私は言う、「んーそうかね?ありがとう」

EI:そうですね、あれはレコードで最も幅が広いビートだと思います。レイは全体を通じて常にエルヴィン・ジョーンズの2小節先くらいを行っていますよね。

CW:そうだね、大したものだよ。

EI:でも、依然としてあれは優れたレコードですね。レイはソロのひとつでオーヴァーダブしていたりもしますけどね。元々のソロのゴーストが聞こえるんです。

CW:冗談だろ。全く気がつかなかったよ。

EI:ヘッドフォンをすると聞こえるんです。『ラヴ・ウォークト・イン』でだったと思います。

CW:へえ。それはまた…勉強になるね。こんどまたヘッドフォンで聞き直してみるよ。

EI:あなたとエルヴィン、レイは皆ジャズ・リズムの名手です。でもビートを違ったところで演奏します。ジャズのビートについて学びたい誰かに何か言いたいことはありませんか?

CW:ジャズ・ビート?そうね、J.J.ジョンソンがあるときこう言ったのを覚えている。彼とは長いこと、1年半くらいだったかな、演奏したけど、何か言われたのは一回だけだ。彼を聞いて学んだことは多いんだ。彼は本物の魔法使いだったよ。で、彼が言ったことというのはね、「シダー、お前急ぎすぎだよ」。一度だけだ。しかしそういうのは君が聞きたいことじゃないんだろうな。

EI:えーと、分かりませんけど、そういうことがあったというのを聞くのは興味深いですね。

CW:たぶんそのとき、私はナーヴァスになっていたか、あるいはまだビールを飲んでいなかったんだろうね。急いでしまった理由はいくつも思いつく。もしかすると、J.J.は心中ある種の遅さを念頭においていたのかもね。あるいは、君がその曲が好きじゃないとき、急いでしまうこともある。早く終わらせたくて無意識のうちにそうしてしまうんだ。早く終わらせたくてね。だから、彼がどうしてそういったのかということには、いくつもの可能性がある。しかしジャズのビートだって?私は困っちゃったよ。イーサン。

EI:さて、そろそろジャズを話すのではなく聞いてみましょうか。あなたはすでにヒギンズについて何度か言及しましたが、多くの人々は、シダー・ウォルトンとビリー・ヒギンズの組み合わせはスウィングとは何かの代名詞だと思っています。

CW:おお、それはまた大したお世辞だね。

(我々は一緒に5曲聞いた。私が起こしたソロの譜面はオリジナル・サイトにある。他の曲もインターネット・ラジオや音楽共有ブログの類で容易に見つけることができる)

『テーマ・フロム・ラブ・ストーリー』、サム・ジョーンズとビリー・ヒギンズとの共演、1972年。

Breakthrough

CW:ああ、これね。覚えているよ。ベースはサム・ジョーンズかな?

EI:はい。

CW:楽しい思い出だなあ。「愛の詩」って映画の曲だよね…

EI:しばらくの間、あなたは当時のポップのヒット曲を演奏していました。バート・バカラックの曲とか、これとかですね。1972年の演奏だったと思います。

私が知る限りでは、これがあなたとサムとビリーが一緒にやった最初のトリオ・レコーディングだったと思います。

CW:録音という意味ではたぶんその通りなんだろうけど、我々はそれ以前から一緒に演奏していたよ。サムとは私がニューヨークに来たころに知り合ったんだ。彼はキャノンボールとかオスカー・ピーターソンのところで名を揚げたんだが、いつもこのわたくしシダーのことを覚えていてくれてね。彼がオスカー・ピーターソンのバンドを辞めたというので、「サム、うちに来ないか」と言ったんだ。

いやはや、彼との演奏は楽しかったなあ。彼はいつも物凄い車を乗り回していた。そうしたライヴの仕事で一緒になると、大体キャディラックとかそういう人目を引く車だったね。面白いことに、そういう車に乗っていると、我々の雇い主はいつも給料を上げないといけないという気分になるらしいんだ。

EI:サム・ジョーンズとビリー・ヒギンズよりも深いノリのビートを刻むことは誰にもできませんね。

CW:その通りだ。それにこれは良い録音だね。

EI:アーマッド・ジャマルの影響も聞かれます。

CW:もちろんだ。アーマッドを避けることは不可能だよ。でも私は誰かをそういう風に避けたいとも思わないね。

EI:あなたの特徴的なサウンドの一つは、マイナー・キーでうまいフィールを保ったまま長く曲を弾くということだと思うんです。最近見たヴァンガードでの『リトル・サンフラワー』の演奏がそうでしたよね。あるいはロン・カーターとの『マイ・ファニー・バレンタイン』とか。こういうちょっとムーディーで、グルーヴがある、マイナー・キーの曲ですよ。

CW:そうだね。そう言ってくれてうれしいよ。私は私のことをもっと知らなければいかんな。

(音楽を聴きながら)これ以上のビートはないね。思い出させてくれてうれしいよ。

EI:本当にスウィングしていますね。あなたがた3人が現在演奏するリズムは、世界中どこの五線紙にも書かれていないものです。ジャズのフォークロアですね。

CW:えらい小難しい説明だね!

『四月の思い出』、クリフォード・ジョーダン、サム・ジョーンズ、ルイ・ヘイズとの共演。1973年。

Naima - Recorded Live at Boomer's NYC by Cedar Walton

CW:これは「ブーマーズ」での演奏かな?

EI:はい、ルイ・ヘイズがドラムスですね。

CW:覚えているよ。これはすごい譜面起こしだね。一年くらいかかったんじゃないの?

EI:最近では音楽を遅くしてくれるコンピューター・プログラムがあるんです。なので、起こしはとても簡単です。私の耳はそんなによくないものですから。私は天然の起こし屋じゃありません。ミネソタ州トゥー・ハーバーズで冬閉じ込められているときにやったんです。クリスマス中何もやることがなかったものですから。

CW:そうだな。ミネソタはまあそういうところだよ。

EI:ほんとに素晴らしい演奏ですね、シダー。ピアノはひどい代物ですが、これスピネットでしたっけ?

CW:いや、「ブーマーズ」のピアノはアップライトだよ。スピネットより少し大きい。

EI:「ブーマーズ」ではよく演奏されていましたか?

CW:うん、あそこは私の救い主でね。私は街の反対側に住んでいてね。ちょうど東側だよ。ヒューストン通りを少し下ったところのコロンビア・ストリートだったかな。

EI:「ブーマーズ」はどこにあったんですか?

CW:「ブーマーズ」はブリーカー・ストリートだよ。だから『ブリーカー・ストリート・テーマ』って曲を作曲したんだ。建物はまだあるけど、もうブーマーズは閉店したね。ブリーカーのクリストファーのすぐそばだったよ。2ブロック先へ行くと「スウィート・ベイジル」の裏に出る。そういう地域さ。更に行くとセブンス・アヴェニューに出る。

EI:60年代にも「ブーマーズ」で演奏していましたか?あるいは70年代だけ?

CW:60年代には演奏していなかったな。60年代はJ.J.と一緒だったからね。70年代か80年代だよ。

EI:ジャズテットにもしばらく在籍していましたよね。

CW:うん、J.J.のところの次に、ちょっとだけね。

EI:あなたは「ジャズテット・プレイズ・ジョン・ルイス」のレコードに参加しています。

CW:それは面白いね。

Art Farmer - Benny Golson Jazztet. Here & Now / Another Git Together / Plays John Lewis by Art Farmer

EI:ジョン・ルイスと働くのはどうでしたか?

CW:うーん、そうね。彼は何でも完璧にアレンジしていたな。そうするとちょっと余計に金がもらえるんだ。彼との仕事はそんなに印象に残っていないなあ。エレベータで、彼とガンサー・シュラーに出くわしたことがあるよ。連中ずっとしゃべっていた。彼らは私のことなんか全く眼中になかったんだ。別に怒っているわけじゃないよ――たぶん彼らは何か話すことがあって、私にはなかったんだろう。だから別に構わないんだけどね。

EI:ピアノ・プレーヤーについて話してきましたが、ジョン・ルイスは50年代のレコードに関してあなたに影響を与えましたか?

CW:うん、彼のイントロだね。『ウィスパリング』とか素晴らしいね。マイルス・デイヴィスの曲だけど、君が聞いたことがあるかは知らないが。

パーシー・ヒースが教えてくれたんだが、ジョン・ルイスがディジーのところで演奏したとき、劇場で演奏していたときには、みんなカーテンのところに集まってジョン・ルイスのソロを聴いていたそうだよ。彼は本当に素晴らしく演奏した。彼がMJQとかなんかそういうふうに呼ばれていたものを組織したとき、いろいろ変えなければならなかった。元々ミルト・ジャクソン・カルテットだった。うまいことにイニシャルは変えなくて済んだ。あれは、ディジー・ガレスピー・オーケストラのリズムセクションが独立しただけなんだ。レイ・ブラウンはちょっとだけいて、すぐにエラ・フィッツジェラルドのところに移った。それでパーシーが参加したんだ。私は「ジャンゴ」の大ファンで、ケニー・クラークと作ったあのあたりの初期のレコードが好きだな。そしてもちろんケニーはフランスに移住したんで、コニー・ケイが入ったんだ。

Django

EI: 次のレコードは、ジャズにおけるタイムの本物のお手本ですね。特にこれはドラムスが入っていませんから。

『フランキー・アンド・ジョニー』、ロン・カーターとの共演。1981年。

Heart & Soul by CEDAR / CARTER,RON WALTON (2015-09-16)

あなたの左手はちょっとリズム・ギターのように聞こえますね。

CW: うん、エロール・ガーナーみたいだね。

EI: こんなにスイングするデュオは聞いたことありませんよ。すごいなあ。

CW: 君のおかげで、素晴らしい音楽的瞬間の素晴らしい思い出を体験できているよ。

EI: あなたはライナーノートで、あなたとロンはこの時期かなりの量のデュオをやっていたと書いていましたね。

CW: この時期に?そうだね。家にいてテレビ見ているよりは、外に出て演奏したかったんだよ。

(原注:このシダーの皮肉なコメントは、1981年にストレート・アヘッドなジャズを演奏する仕事を見つけることの難しさに関するものだ。彼が執筆したこのレコードのライナーノーツで、事情がさらに詳しく語られている。「ロン・カーターとシダー・ウォルトンのデュエットが生まれたのは、我々がニューヨーク・シティの音楽酒場のいくつかで演奏するようになったのがきっかけだ。最初はドラマーがいないせいでやりにくいところもあったが、間もなくリスナーは、ドラマーがいなくても全く気にしないようになった!実際、聴衆の反応はとても熱いものだったので、我々二人はリラックスできるようになり、急いたサウンドになることなく音楽的推進力を獲得したのである。二人のコントラストはインタープレイにおける不可欠な一部となり、音楽が大変豊富なこの街において、我々はミュージシャンと音楽愛好家両方の注目を集め始めた。これらの特別な演奏機会から一年ほど経った後(ロンも私も自分自身のグループを率いていた)、タイムレス・レーベルがこの音楽を保全しようと決めたのだ。それが、皆さんがこのレコーディングでお聞きになった内容である。そんなわけでこの音楽は、耳ざとい愛好家、ヘヴィーリスナー、音楽には関心の無いスリルを求める人々、空腹で食事に来た人、などなどが体験した後、デュオのファースト・アルバムとして登場することになった。」)

しかし、これはスタジオでやったような気がするんだが。

EI: はい、そうです。良い音のレコードですね。ピアノの音も良い。ロンのベースも素晴らしい音ですね。

CW: そりゃロンだからね。ロンはまだ健在だよ。

EI: ロン・カーターについてお聴かせください。

CW: 偉大なベーシストだよ。伴奏するのが好きなんだ。彼は偉大な刺激を与えてくれる。彼は最終的にソロイストとして地位を固めたけど、彼の強みは伴奏にあると思うんだけどな。

EI: そうですね、あなたとロンとビリー・ヒギンズの演奏を数晩見たことがありますが、あれは人生のハイライトでした。

CW: へえ、我々を見たことあるの?

EI: ぼくが初めてニューヨークに来たときに、スイート・ベイジルで。1992年のバレンタインデーでした。

これは本当に古いブルースですよね。『フランキー・アンド・ジョニー』。なぜこの種の曲を演奏するんですか?

CW: なぜって、いい質問だね。うーん、それは、いい曲だからだよ。

EI: ちょっとかっこいいアレンジを利かせてますね。

CW: まあね。何かしないといけないんだよ。そういうふうにして自分自身を表現するんだ。この手の曲をちょっとした工夫なしにただ演奏するのは…意味がないとまでは言わないけど、まあね。

EI: そうですね、ブルーズについて少し話しましょう。何かブルースについてお話になりますか?

CW: (笑う)そうね、ブルースは最も重要なコード進行の一つだよ。W.C.ハンディが確立した。彼が12小節のコード進行を初めて用意したんだと思う。で、長年それが続いている。

EI: 我々が今聞いた『四月の思い出』でのソロでも、あなたがブルースではない文脈でブルースを弾いている瞬間がいくつかありました。あなたは高度なジャズ言語を駆使するのに、ブルースも弾く。

CW: うん、分析的だね。私がブルースが好きだから、というだけの話なんだが。他にどう言ったらいいのかわからないな。

EI: すみません…

CW: いや、謝る必要なんかないよ。私が謝っているんですよ、知的な答えが出来ないから。

EI: 私がそれについて語るよりも、あなたがおっしゃることのほうがもっと知的ですよ!しかしこれはこの種の質問をあなたにするチャンスなので、素人みたいに見えることは構いません。

CW: その場で考えた、という以上に繰り返せる答えはないんだよ。何をやるかは完全に把握できているわけではないのでね。正しいことをやりつづけようとする、というだけなんだ。

EI: 『フランキー・アンド・ジョニー』ですが、これは美しいですね。とても古い曲に、モダンな要素と強力なビートを盛り込んでいる。この組み合わせはとても説得力があります。

CW: 今日聞いた中で一番の褒め言葉だね。

EI: これからかける最後の二曲はあなたが作曲したものです。あなたはジャズにおける重要な作曲家の一人として考えられています。若い頃から作曲していたんですか?

CW: そうだね、まあ大昔は作曲していなかったけど、作曲しようとはしていたんだ。私の母は「また曲を作っているの?」とか言っていたよ。彼女はピアニストだったんだ。譜面が無いと全く弾けない人だったけど、シート・ミュージックがあれば弾けたし、弾きながら歌詞を歌うこともできた。誰かがそういうことをやるのを見るというのは、とても役に立ったね。

EI: 多くのスタンダード曲はシート・ミュージックから学んだんですよね?

CW: そうだよ、もちろん。手に入る譜面は何でも手に入れたね。

EI: 当時はフェイク・ブックはまだありませんでしたよね?

CW: 無かったよ。でもジョージ・シアリングとかの演奏を簡略化したバージョンの譜面はあった。何という本だったかな…。

EI: ああ、それなら見たことがあります。「インタープリテーションズ・バイ・ジョージ・シアリング」ですよね。あれは非常に有用です。

CW: そうそう。特にあれは簡略化されていたからね。高度なものでは無いんだ。だから子供でも理解することができる。ジョージから学ぼうとしていたころに覚えた曲を今でも演奏しているよ。『ザット・オールド・フィーリング』だ。アート・ブレイキーの「スリー・ブラインド・マイス」で録音した。

Three Blind Mice Vol. 1

私は常に作曲しようとしていた。とにかく何か作曲したかったんだね。変なタイトルの曲も書いた。例えば『トラッシュ・キャン(ゴミ箱)』とか。記憶に残る曲ではなかったけれど、とにかく作曲しようとはしていたんだ。メッセンジャーズに加わるころ――というのはアート・ファーマーやベニー・ゴルソンとやっていたジャズテットから抜けるころのことだけど――私は『モザイク』という曲を書いたんだ。数分の間に浮かんだ曲だよ。セントラル・パーク・ウェストのマックス・ローチのアパートでビールを飲んでいたら、あの曲が出来たんだ。「おう、曲が一つ出来ちゃったな」と言ったものだよ。私はあの曲を、クリフォード・ジョーダンと一緒にまずリバーサイドで録音して、次にアート・ファーマーやベニー・ゴルソンと録音しようとした。30テイクはかかったね――彼らはあの曲が好きじゃ無かったんだ。何度も何度も何度もやってみたんだけれど、ついに我々はあきらめた。それで、メッセンジャーズに加わったばかりのときにあの曲を持っていったんだが、連中はあの曲をまるでライス・クリスピーを食べるみたいにたいらげてしまった。ウェイン(・ショーター)、フレディ(・ハバード)、カーティス(・フラー)というメンバーだったね。我々が最初にブルーノートで録音したのが「モザイク」だった。そんなわけで、ニューヨーク・シティの近くを車で夜走りながらラジオのジャズ局を聞いていたら、「次におかけするのは『シーダー』ウォルトン作曲の『モザイク』です」なんていうんだよ。DJは私の名前を「レーダー」みたいに発音したんだ――「シーダー」ウォルトンってさ。良い気分だったよ。あれがある意味ターニング・ポイントだったな。

EI: ブレイキーはしばらくの間2人の偉大な作曲家を擁していたという点で幸運だったと言えますね。あなたとウェインのことですが。

CW: うん、それにフレディだって相当な作曲家だったよ。

EI: そうですね、彼も素晴らしい曲を書きました。

CW: 私は幸運だったんだ。ブレイキーは我々に曲を書くよう強く勧めてくれた。彼は我々が作曲するのが好きだったんだ。我々が十分曲を書いたら、スタジオに入って録音したんだよ。

EI: スタンリー・クロウチによれば、彼がLAにいた頃は、あなた方が街にやってくると街中の人が聞きに来たそうですね。

CW: あのころのロサンジェルスは楽しかったね。「スリー・ブラインド・マイス」を録音したのがちょうどあの頃だよ。確かサンセット・ブールヴァードだったな――もう無い店だよ。近くにプレイボーイ・クラブもあってね。幕間に聞きに行ったものだ。ナンシー・ウィルソンはまだとても若かったけれど、あの店に出ていたんだ。いい思い出だね。

『アイアン・クラッド』。ロン・カーターとジャック・デジョネットとの共演。1983年。

Walton, Carter & DeJohnette

CW: (笑う)これはロンとジャックとやった奴だね。何年も聞いてなかったよ。

EI: タイムに乗ったあなたの右手の動きが好きなんです。リズム・セクションはものすごい勢いですが、あなたは彼らのノリにうまく乗っかっていますね。

CW: まあ、あの曲を書いたのは私なのでね。連中より少しは良く知っていたんだよ。

EI: リズム・セクションの演奏も素晴らしいですね。しかし非常に攻撃的で、非常に騒がしいです。

CW: うん、あの二人だからね、連中は恐れを知らないんだ。このバージョンのことはすっかり忘れていたなあ。

EI: これは、あなたがこの種の異なるサウンドで演奏しているところが録音として捉えられている珍しい例です。70年代から80年代にかけて音楽が向かった、ある種の方向ですね。ヒギンズはこういう方向には決して行きませんでしたが、トニー・ウィリアムスやデジョネットはこの方向へ向かいました。より大きなドラム・キットを使うとか、そういうものです。あなたはこのタイプの演奏にもうまくなじんでいるように思います。

CW: ジャックとは、彼がシカゴを離れる前に会ったんだ。

EI: レジー・ワークマンとジャックと一緒にやった初期の仕事があったそうですね。

CW: アビー・リンカーンの伴奏だね。ジャックが街にやってくるなり、たまたまドラマーがバンドを離れることになって、すぐさまジャックが入ったんだ。ジャックは知らない人という感じがしなかったね。

(聞く)カーター氏にしては短いソロだったね。

EI: ロンとジャックが二人でしばらく繰り返すところがありましたね。だからロンはソロを短く切り上げたかったんだろうと思いますよ!

ぼくは暗い音色が好きなんです――9度を上に置いたマイナー・コードのような。

CW: 今も私たちはこの曲を演奏しているよ。特にセットの最後でね。たとえばセットを終わらせるのにあと12分必要なら、しばらく適当に演奏して、時間が来たらうなづいて合図してブリッジに行って終わらせるんだ。

EI: それはアーマッドの流儀でもありますね。どのセクションを採用するかその場で選べるという点で。

CW: そうかもね。

いやはや、しかし私はこの録音をすっかり忘れていたよ。とてもいいね。ジャックのスタイルになじみがなかったわけじゃないんだよ。彼との共演は楽しかった。この曲をメチャクチャに終わらせるよう勧めたのは私なんだ。「ダ・ダーン」みたいなありがちな感じではなくて、妙なドラム・ロールを入れたりしてね。いつも笑いながらの演奏で楽しかったよ。私たちはハーレムにいてね。毎晩のように一緒にやっていて、グラディ・テイトなんかが、この不思議な新顔のドラマーは誰だろうといぶかしがるのを見ていたよ。

EI: グラディ・テイトがジャックを見ていたということですか?

CW: うん、彼は自分の仕事が終わって来ていたんだ。彼はブロードウェイの伴奏仕事を一杯やっていてね。他の連中もいたけど、特に彼のことを覚えている。その仕事はとても楽しかった。そして我々はこの録音を一緒にやったんだ。レコードの名前は思い出せないけど、ジャケット写真は覚えているよ。私の髪型がひどいんだよ。

EI: このアルバムは、単に「シダー・ウォルトン、ロン・カーター、ジャック・デジョネット」というタイトルですね。

CW: CDになったかは知らないけどね。

EI: たぶんなっているとは思いますけど、探すのは難しいでしょうね。このレコードは誰もが知っているというものではないです。

CW: そうだろうね。ジャックの曲が1曲あったと思うな。拍子がしょっちゅう変わる曲で困ったんだ。5/4拍子とか7/4拍子とか。変拍子の扱いをちゃんと練習していなかった私が悪いんだけど、そこはわたくし、セロニアスのお言葉「自分ならではのものを演奏しろ」の犠牲者なのでね――わかるだろ、最初だけ7拍子でやって、あとは4拍子に戻しちゃったんだ。みんなそうしてるよ。とにかく自分自身のやり方でやるということを心がけているという点で、私は幸運だね。

EI: 最後の曲は比較的最近のものです。最新のソロ・レコードからのものですね。このハーモニーについてお話したいんです。というのは、非常にあなたらしいサウンド、あなたならではのサウンドのように思われるからです。

『アンダーグラウンド・メモワールス』。2005年。

UNDERGROUND MEMOIRS

CW: これは、哀歌というか葬式の音楽を念頭に置いたんだ。で、その後ハッピーな音楽にしようとするんだけど、曲がそうさせてはくれないんだね。「だめ、だめ、悲しいままで!」

EI: ここでのあなたの演奏法が好きなんです。この曲をバンドで、ある種アップテンポで演奏しているのを聞いたことがあります。

CW: うん、変えたんだ。半分ボサノヴァみたいにしようとしたんだよ。

EI: 私は哀歌バージョンのほうが好きですね。

CW: 特にソロのときは、哀歌でいいんだけどね。君がこの曲をかけてくれてうれしいよ。君がかける曲を聴いていると、なんだか誇りに思えるんだ。私の頭から出てきた曲なのに、私自身この曲がどこから生まれたのか分からないという点でね。とてもオリジナルで、他に似たものが思い浮かばない。コードは知ってるんだろ?

EI: はい、Dフラットの上にCのトライアドですね。これをどうお呼びになっていますか?

CW: 特に名前はないね――君が今呼んだ通りだよ。

EI: このコードを音楽に持ち込んだのはあなただと思っていました。

CW: そう思っていたの?そんなことはないと思うがなあ。

EI: 60年代にですかね?こういうのをブレイキーとウェインとの演奏のいくつかで演奏していましたし、ジョー・ヘンダーソンの「モード・フォー・ジョー」というレコードでも演奏していました。

Mode for Joe

CW: まああり得るかな。君は私の業績を良く知っているね。私よりも良く知っているよ。

EI: あなたがこれらのポリコードを演奏する方法には一つの特徴がありますね。とてもあなたに固有です。ハービー・ハンコックがこうしたコードを演奏するとき、それらはさらなる抽象化やハーモニーの精緻化への入り口なんです。でもあなたがこういうコードを演奏するのは、「これはこういうコードなんだ」という感じで、そこに支柱を立てるようですね。どこか他のところへ行くための通過点という感じではありません。

CW: 私のアプローチを君はそう思うのかね?それが君が私のアプローチを評価する方法?

EI: あー、いや…気分を害されていないと良いのですが。

CW: いや、とても正確に聞こえたのでね。

EI: それに非常にモンク風でもありますね。

CW: その通りだね。「自分ならではのものを演奏しろ」というやつだ。私が思うに、この曲には二つの側面があるような気がするね。一つは平易で、もう一つは未来的なーあるいは私に出来る限り未来的だということだが――ブリッジに比べるとね。いやはや。それにしても良い音のピアノだな。

EI: あなたはニューヨーク・ジャズの重鎮です。91年にこの街に来て以来、ぼくはあなたが演奏するのを見ています。ほとんど毎年のように。

CW: 91年からだって?いやはや。君がニューヨークに来たのがその年?20年くらいにはなるのかな。

EI: もうすぐなりますね。あなたとヒギンズが一緒に演奏しているのを、少なくとも6回は見ました。本物の奇跡の一つとして心に刻まれています。特別な情景でした。

CW: うん、そうだったね。

EI: ヒギンズはどんな人物でしたか?

CW: ああ、彼は本当に優しい人物だったよ。とにかく完全に…全て音楽なんだ。車を借りてラジオでジョン・コルトレーンがかかると、二人とも言うんだ、「彼が一番だな」。そういった同志愛と多くの物への共有された愛があったよ。特にあのグループはね。うん。

EI: ヒギンズのビートには独特のウキウキさせるようなものがありますね。

CW: そうだね。音楽にぴったりはまるんだ。誰がベースだとか、ベースがどうビートを解釈するかとか、あんまり関係なかったね。彼はすぐさま合わせてしまうんだ。ウォーミング・アップが必要なかった。彼は、打ち出す最初のビートからすっかり乗っているんだ。これが彼と多くのドラマーを分かつ点だったね。多くのドラマーにはしばらく時間が必要だ。彼らを聞いていると、「ああ、だんだん乗ってきたな」と分かるものなんだ。ヒギンズはそうじゃない――ヒギンズはすぐだったね。彼の貢献の質にはいつも敬服してきたよ。

EI: 最初の一音からスウィングしていましたね。

CW: うん、最初の一音からね。それが、彼の音楽に対する特別な気持ちを表現しているんだ。彼は純粋なジャズそのものだったよ。彼はオーネット・コールマンと一緒にニューヨークへ来たんだ。「ファイブ・スポット」で何週間も演奏していた。私はよく見に行ったんだが、飛び入りしようとは一度も思わなかったね。ピアノはあったんだが。

EI: あなたはフリージャズは好きでしたか?

CW: うん、彼らがやっていたことは驚異的だった。彼らは多かれ少なかれ繰り返し演奏することで学んでいたね。譜面を読むとか、そういう他のプロセスと比べると、という話だが。オーネットは何か譜面のようなものを書いてはいたかもしれないが、それはあくまで彼やバンドのメンバが使うためだけのもので…。とはいえ、オーネットがどうやって音楽を作っていたかについて、私が何か知っているというふうに引用されたくはないな。でも、ほとんどは彼らの頭に入っていたよ。

EI: オーネットとドン・チェリーは曲のヘッドがものになるまで一緒に何度も練習していたと聞いたことがあります。彼らはカウントオフもなしにすぐ始めることができましたね。バン、と。

CW: だから革新的だったんだ。私は彼らの音楽をとても楽しんだよ。

EI: チャーリー・ヘイデンと演奏したことはありますか?

CW: ちょっとだけね。彼がバンクーバーに私とヒギンズを招いたことがあって――私がカリフォルニアに住んでいたころのことだ――フェスティヴァルにね。それが唯一だったかな。私はサム・ジョーンズやロンやレイや、そういった人々の力量に甘えてしまっていてね。ヘイデン氏には彼自身の世界があって、私にもまあ、ちょっとした自分自身の道がある。そんなもんさ。でもありがたいことに世界には他にも多くの優れたベース・プレイヤーがいてね、多くがニューヨークを拠点としている。ありがたいことですよ。ジョージ・ムラーツが頭に浮かぶね。素晴らしい連中だ。私は幸運だね。

EI: デクスター・ゴードンと演奏したことがありますね?

CW: うん、特に例の映画のあとにね。

ラウンド・ミッドナイト(字幕版)

EI: 70年代のレコードでぼくが好きなのがあります。「ゴッサム・シティ」です。パーシー・ヒースやアート・ブレイキーと共演されていますね。

Gotham City

CW: うん。あとフレディ・ハバードやバスター(・ウィリアムズ)、ヒギンズとやったのもあるね。「ジェネレーションズ」というアルバムだ。まだデクスターがヨーロッパに住んでいたころの録音だね。

Generation

EI: バスターとあなたが共演しているのを聞くのは素晴らしいです。去年、あなた方が『オール・ザ・シングス・ユー・アー』を2人で演奏しているのを聞きましたが、大変な熱演でした。

CW: レコードになってるかね?

EI: いいえ、「イリジウム」でライヴで聞いたんです。あなたが演奏するのを聞いたことがないメロディをベースに即興演奏していました。バスターがあなたのバックで演奏するやり方には、本当に興奮させられました。

CW: そうかい?明らかに、君はニュアンスを読み取ることが出来るんだな。素晴らしい性質だよ。

EI: ヒギンズが亡くなって、ケニー・ワシントンやルイス・ナッシュ、ジョー・ファンズワース、そして今ではウィリー・ジョーンズと演奏しておられますね。

CW: ウィリーは素晴らしいよ。あともう一人、ジョージ・フルダスというドラマーも素晴らしい。彼はシカゴに住んでいてね、西海岸に行くときは彼を使う。シカゴに住んでいるから、君は彼のことを知らないかもしれないな。今度の5月、カラマズーに行くんだよ。彼を使うつもりなんだが、それは彼も私のやり方を全部分かっている人だからだ。どうやって学んだのかは知らないがね。とにかく素晴らしいよ。こういう連中を見つけると、リハーサルすらしなくていいんだ。

EI: ああしろこうしろとは言わないんですね。

CW: 彼らはすでに知っているからね。私は76歳になる。もし40歳なら、あれやこれや言うかもしれないね。50歳でも言うかな。でもこの地位になると、信じるかどうか知らないが、連中は全部知っているんだよ。そしてそういう連中を探しているんだ。で、雇えるときは雇う。それに、もちろんデイヴィッド・ウィリアムズも連れて行くよ。

EI: あなたのデイヴィッドとの関係は何年も前から続いていますね。デイヴィッドとの演奏も何かかけたかったです。「マンハッタン・アフタヌーン」は私が本当に好きなレコードです。

Manhattan Afternoon

CW: ああそれね。覚えているよ。ヒギンズとも一緒だったな。デイヴィッドはロンからレッスンを受けて、好きにならずにはいられないビートを獲得したんだ。

EI: あなた方は非常に特別なやり方で共演しますね。

CW: 私もそれを感じているよ。彼は良くなったんだ。発展したね。最初、彼のソロイングには改善の余地があったんだけど、何年もの間に良くなった。

EI: ヒギンズ後にあなたと組んだ連中との演奏を見たとき、あなたとデイヴィッドが場を設定していて、ドラマーはそれに色を付けているように感じました。

CW: 全く同意するよ。常にプラスワンがあるんだ。二人いて、もう一人はとにかく才能がある。二人は分かっていて、もう一人はその場で理解する。冒険的なポジションだね。それに気づいてくれてうれしいよ。誰もが気づくわけじゃないからね。

EI: ドラマーが自分のやることを分かっているのは不思議ではありませんね。あなたとヒギンズはよく知られていますから。あなたは、誰かがヒギンズがドラマーのあるライヴで『ボリヴィア』を演ると言って、よりにもよってヒギンズにその曲を知っているか尋ねたという話をしたことがありましたね。

CW: うん、エリック・リードだね。

EI: 彼は冗談のつもりだったんでしょうね。

CW: 知らないよ。そこにはいなかったからね。ヒギンズから聞いたんだ。

EI: ヒギンズはそれを聞いて不快に感じたでしょうか?

CW: いや、ヒギンズを怒らせることなんかできないよ。彼はびっくりしたんだ。「あの野郎が何と聞いてきたか分かるかい?」とか言ってたよ。エリック・リードは優れたピアニストだ。前に「ディジーズ・クラブ・コカ・コーラ」で私の音楽ばかり一週間やっていた。見に行ったんだ。素晴らしかったね…。

EI: ええ、もちろんエリック・リードは優れたピアニストです。私は、ヒギンズがあの曲を知らないとリードが考えるとは思えないので、ふざけていたんだろうと思うんですが。

CW: まあ、君はそこにいなかったのだから、そう思いたければそう思っていいんだ。それは君の特権だね。

EI: 何かおっしゃりたいことがあるようですね。

CW: 特にコメントはないよ。でもヒギンズとエリックは私の曲をうまく演奏したよ。全ての曲にいいアレンジをしていたけど、特に私の曲の『グラウンドワーク』に関しては、その性格を完全に変えていた。ワルツにしたんだ。素晴らしかったよ。

EI: ぼくの『ボリヴィア』話をしますね。たぶん覚えていらっしゃらないでしょう。あなたがデュークに飛び入りしたときの話のようなものです。あなたは覚えているが、デュークはおそらく覚えていない。

8年以上前のことですが、「ヴィレッジ・ヴァンガード」に出ていたんです。テナー奏者のマーク・ターナーと一緒の演奏でした。たぶんそのバンドの演奏はお聴きになっていないと思うんですが、とにかくあなたがおいでになったんです。バーにお友達とおられました。で、相当遅い時間でしたが、まだ何人かの非常に有能なベース弾きが残っていたんです。

CW: あ、ライヴはもう終わっていたの?

EI: ライヴは終わっていましたね。

CW: そんな時間に私は着いたのかね。

EI: ええ、ライヴが終わった後です。とにかく、ぼくはやる気がありまして、ベースの連中に、「なあ、シダーのためにステージに上がって『ボリヴィア』を俺と一緒に演奏する奴はいないか?」と言ったんですよ。そしたら連中は「そんなこと出来るわけないだろ」と言いました。恥ずかしい思いをするのに耐えられなかったんですね。で、ぼくは「なあ、シダーがこれまでいくつのぱっとしないバージョンの『ボリヴィア』を聞いてきたと思ってるんだ?今さらお前らがステージに上がって『ボリヴィア』をダメに演奏しても全然気にしないよ。トリビュートとして楽しんでくれるよ」と言ったんですが、連中はぼくを信じなくて。で、彼らはとにかく帰っちゃったんです。

なので、結局ぼくは自分一人で、ソロで『ボリヴィア』を弾く羽目になりました!ぼくは自分の言ったことを証明したと思います。あなたはとても喜んでくださって、終わった後しばらく話をしました。実際、あなたは『オホス・デ・ロホ』や『煙が目にしみる』のコード進行を教えてくださって、朝の5時かそこらにぼくを車で家まで送ってくださったんです。あれはぼくの人生の本物のハイライトの一つでした。

そしてこのインタビューがもう一つのハイライトですね。お時間をとっていただきありがとうございました、マエストロ。

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