伝説のハサーン・イブン・アリ
アメリカのレコード業界は音源の物理的管理という点では甚だまずく、かつては紛失や盗難が日常茶飯事だったようだし(だからブートレグになって流出する)、数度にわたってセッション・テープを焼失させる火災も起こしている。1978年の火災ではAtlanticレーベルのテープがあらかた燃えてしまい、2008年にはUniversalの倉庫が燃えてしまった。
このハサーン・イブン・アリの未発表音源も、Atlanticのテープ倉庫火災で消滅したと思われていたのだが、なぜか今年になってひょっこり出てきた。今ひとつ経緯がよく分からないのだが、とにかくある時点でアセテート盤としてコピーが作られ、さらにそのコピーがなぜかWarnerのテープ倉庫に紛れ込んでいたということのようである。
ハサーン・イブン・アリ(Hasaan Ibn Ali, 1931-1981)は元の名がウィリアム・ヘンリー・ラングフォード・ジュニア、いつイスラム名に改名したのか良く分からないがフィラデルフィアの出身で、1946年(15歳)からトランペッター、ジョー・モリスのバンドで演奏活動を始めたというから早熟の天才である。モリスはR&B畑の人だったがバンドを去来したのはジャズ系が多く、ジョニー・グリフィン、パーシー・ヒース、フィリー・ジョー・ジョーンズといったあたりが在籍した。これなどはモリスがどうこうというよりグリフィンのフリーキーな吹きまくりで知られている1946年の録音だが、ピアニストは不明である。もしかするとハサーン少年かもしれない。
モリスのバンドに属したことがある一人がピアニストのエルモ・ホープで、ハサーンは作曲、演奏の両面でホープから強い影響を受けたようだ。1950年代を通じハサーンは地元のちょっとした有名人となっていたらしく、マイルス・デイヴィス等フィラデルフィアにやってきた大物と共演し、地元出身のジョン・コルトレーンともリハーサルを重ねていたという(コルトレーンのいわゆるシーツ・オブ・サウンドはハサーンの教唆によるという説があり、1952年に共演した際のプライベート録音が残っているとの噂もある)。50年代末から60年代初頭にかけてはニューヨークにも進出し、マックス・ローチと知り合った。その縁で、最近までハサーン唯一の録音と思われていたThe Max Roach Trio Featuring the Legendary Hasaanを1964年にAtlanticへ録音している。まだ生きているのに「伝説の」とは恐れ入るが、それだけローチへのインパクトが大きかったのだろう。ローチのサポートも素晴らしいが、ハサーンの特異なピアノ・スタイルに加え、作曲の才能も存分に発揮されている。近年はこの中のハサーンの曲(例えばOff My Back Jack)を演奏する若手ピアニストも増えるなど、再評価の兆しはすでにあった。
この余勢を駆って翌1965年、Atlanticにもう一枚ぶん録音したのは知られていたのだが、直後にハサーンは薬物所持で逮捕され、Atlanticの経営陣はツアーなどプロモーションの機会が失われたと判断したらしく、お蔵入りになってしまった。その後70年代にはプロデューサー業にも興味をもっていたラサーン・ローランド・カークがリリースの可能性を探っていたようだが(カークが聞くために用意されたのが件のアセテート盤やそのコピーだった可能性はある)、結局現実化はせず、その後の倉庫火事でテープは焼滅したと思われていた。
ハサーン自身は地元フィリーでは才能豊かだが不安定な変人として有名だったようで、朝から晩までバスローブ姿で練習する、ネクタイがうざったいとハサミで切ってしまう、クラブで気に入らないピアニストが弾いていると椅子を蹴り倒して自分が弾き始めるといった奇行が伝えられている。薬物の影響かもしれないし、元々発達障害か精神疾患を抱えていた可能性はある。同郷のベニー・ゴルソンは、「(ハサーンは)モダンなサウンドを完全に知り尽くしていたが、モダンを通り越して非常に神秘的な領域に突入していった。超前衛だったんだ。ブレーキが壊れていたとでも言うのかねえ」と述べていて、まあそんなところがあったのかもしれない。結局その後は薬物中毒やら何やらで体調が悪化し、引退状態で両親と実家暮らしだったようだが、1980年に火事で両親と家とそれまで書きためていた譜面を失うと完全に生きる気力が無くなったようで、間もなくホームレス同然で亡くなった。
こうした紆余曲折を経て登場したのが今回の音源だが、ローチ盤でもベースを弾いていたアート・デイヴィスがベース、カリル・マディのドラムスにオディアン・ポープのテナー・サックスというカルテットで、画期的とまでは言えないかもしれないが、それでも注目すべき作品だと思う。 興味深いことに、聴くたびに良くなっている気がする。
私はあまり音質にうるさくない人間だが、いずれにせよ音はそれほどひどくはない。アセテート盤のコピーを元にしていると聞いていたのでもっととんでもない音質を想定していたが、低音は特に太くて暖かい音がする。リマスタリングの力でしょうか。
ハサーンのピアノ演奏には、エルモ・ホープ、ハービー・ニコルズ、アンドリュー・ヒル、そして何となくジャキ・バイアードを思わせるところがある。 ジャキと共演していたジョー・ファレルに比べると、若き日のオディーン・ポープには冒険心が欠けているような気がするが、それを責めるのは酷というものだろう。変人ハサーンと一緒にプレーするのは大変なことだったに違いない。現代だと、逆にジェイスン・モランに似ているとか言われそうだ。
リズム・セクションは優秀で、ハサーンのへんてこな曲にうまく合わせている。特にアート・デイヴィスのベースワークは驚異的だし、カリル・マディも輝いている。 このカルテットはユニットとして非常にタイトなので、一回でもライヴをやって録音しておいてくれたらなあとは思うわけですが。
作曲の面で出色なのは「Viceroy」だろうか。「Mean To Me」の進行をベースにしているが、ハサーン節というのか、こちらの予想をことごとく裏切るような展開を見せる。今回登場した7曲ぶんだけジャズは豊かになったような気がしますね。
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