キース・ジャレットの晩年
先日キース・ジャレットが大阪で一悶着起こしたと聞いて、いろいろ思うことがあった。
昔から気むずかしいというかめんどくさい人ではあったし、あるいはよほど大阪の客の態度が悪かったのかもしれないが、最近もイタリアのジャズフェスで似たようなことがあったというし、マシュー・シップやヴィジェイ・アイヤーといったニューヨークあたりで活躍する若手・中堅ジャズメンからの評判も、「高いギャラを取るくせに平気でキャンセルしたりして後進が注目される機会を潰す」と良くなく、ほとんど老害扱いである。個人的には、キースほどの集客力や、もっとはっきり言えば才能が無いお前らが偉そうなことを言うなという気がしないでもないのだが、ここ数年の作品を見ると、その内容や、あるいはほとんど無秩序といっていいリリースの仕方に、やはり相当タガが緩んでいるなあと言わざるを得ない。たぶん、キース自身自分の衰えにうすうす感づいていて、それが気むずかしさの増大に拍車をかけているのではないかと邪推しているのだが。もう70歳だしねえ。
私はキース・ジャレットの音楽が好きなのだが、そう公言するのはどことなくはばかれるところがある。というのも、私自身が好きなキースの音楽は、どうも世間一般の人が好むものとは微妙にずれているように思われるからだ。たとえば、私はかの大ヒット作ザ・ケルン・コンサートが大して好きではないのである。嫌いというほどでもないんだけど。ソロ・ピアノならフェイシング・ユーばかり聞いているのだが、しかしあれはキースの作品系列の中ではかなり異質だし、もっと最近まで引っ張ってくるとラ・スカラも好きだが、あれもねえ。
スタンダーズ・トリオも、同じメンツで30余年、近年はほとんど定期便のごとく来日し、正直マンネリと言わざるを得ないのだが、でも初期の作品を聞き直すと、凡百をまるで寄せ付けないピアノ・トリオの優れた達成だったと言わざるを得ない。歴史的な意義も絶大だと思う。しかし、最近ビル・エヴァンスを集中的に聞き直していて、やはり肝の据わり方というか、凄みというか、表現者としての格のようなものでエヴァンスのほうが皮一枚上と思うようになった。まあ思い込みと言われればそれまでの話なのだが、元々エヴァンスがそれほど好きではなかった人間(俺だよ俺)に、音楽そのものの力だけで半ば強引に考えを変えさせたというのは、ある意味客観的なプロセスだったのではないかとも思う。いずれにせよ、あれだけ卓越したテクニックと才能を持ちながら、ジャズのヴァルハラへの最終列車にはわずかに乗り遅れた男、というのが、私のキースへの評価である。しかし大多数は切符すら取れなかったのだ。それを思えば、もって瞑すべしといったところだろう。
もし今まっさらな状態でキース・ジャレットの音楽に触れるのであれば、スタンダーズ・トリオよりも、ヨーロピアン・カルテットの演奏から聞いたほうがよいのではないかという気がする。先日出たスリーパーは、しょせん35年前のお蔵だしではあるけれど、とても素晴らしかった。聞き手に努力というか体力を強いる演奏だが、キースはそういう、良い意味で聞き手に多くを求める音楽家だったはずなのだ。それだけに、聞いて得られるものも多かったのである。
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